Wednesday, August 31, 2016

深いクマザサの斜面で夜になった話その3

「参ったね〜」ハットリさんはどこまでも平常心みたいな声で
またショートホープに火をつけた。
背が高くて痩せてる彼はジャージの上にエンデューロジャケット、その日は借金してでも買うべきと言われるくらい性能が良かったマルコムスミスのゴアテックスじゃなくて、その何年か前にメキシコのレースに出る時にもらったUFOのやつ。山の中でじっとしているとさすがに冷えて来た。
二人とも黙っていると、虫がないたり風が木を揺らしたり、遠くで何か生き物が鳴いていたり、静かなようで山の夜はけっこう音がするものなんだ。
黙ってるとさびしいので、今日走ったルートのおさらいをしたり、とりとめのないバカ話をしたり、手の届くところにあるクマザサを手折って、水もないのに笹舟を作って真っ暗な中で時間を過ごした。
僕らのバイクはHONDAのXRっていう逆輸入のレーサーで、ハットリさんのが1986、僕のが1987年モデルだったか、当時でもけっこうな型遅れだったけど、シンプルで頑丈な空冷エンジンで、ファイナルとタイヤの選択さえ間違えなければ山の中で沢を越えたり、つづら折れの獣の通り道を登ったりするには最高に乗りやすいバイクだった。
さてこのあたりのイノシシの道は、バイクが数台通って道になったのと見分けがつかないくらいにきちんと道としての体裁を保っていた。
1年行かないとあっという間にジャングルに戻るような鬱蒼とした森の中にある細い道が、何年もの間、人間の手を借りずにちょうどバイクで走れるくらいの状態を保つのは、それなりのサイズと数のイノシシどもが、頻繁に行き来を繰り返しているからに他ならない。
メジャーな街道から遠くはずれ、険しい岩の山に囲まれて、火山灰が堆積して農耕にも適さず、冬は氷点下20度を切る、関東圏でも古くから打ち捨てられたような山だったので僕ら以外にこのあたりをバイクはおろか徒歩で通る人もいない。
そんな人里離れた山の中であったけど、我々は坂の上り下りではタイヤの跡をつけないように細心の注意をはらっていた。
登れないとわかってアクセルを開けるようなヤツは即死刑か退場、痕跡がなくなるまで修復してもらう。
公道でのバイクの往来は自由なものだが、道にタイヤの跡を付けるような走り方をすると話が変わって来てしまう。




何年も人の行き来がない山の斜面もバイクが通ったことはもちろん、誰がどこを通ったかわからないくらいにサラッと通りぬけることが当たり前のテクニックであり最低限のマナーだった。
今回に関してはそのテクニックが災いして戻る道がわからなくなってしまった訳だが。

しばらく前まで河原で拾ったようなタイヤを何年も履いて、カステラみたいなシートのウレタンをはみ出させた汚いXRに乗っていた我々だが、走るフィールド減ってルートがが険しくなるにつれてその日の路面に合せたタイヤの選定はもちろん、シートの会社をやってる友達に頼んで最新のテクノロジーで作ったシートのモニタをさせてもらえるようになって、かなりこぎれいで状態のいいバイクに乗るようになっていた。

当時数万円するフランス製のトライアルタイヤを試したり、最悪な路面に備えてビードストッパーを3個入れたりも試したりした。
タイヤの空気圧が全くなくなっても、ビードストッパーでリムとタイヤが空転さえしなければ帰って来ることができる。万が一クラッチが滑って走らなくなっても、本当にダメなのは1枚か2枚なな場合も多い。そこでスペアを2枚くらい持って、もしもクラッチが焼けたら
山の中でバイクを横たえてそのままオイルをこぼさないようにダメなプレートだけを換えて、石の表面で焼き付いた面を荒らしてそーっと組んでやれば、エンジンをかけて少しくらい動かせることも知ってた。そもそも山の中でクラッチが完全にダメになるやつは滅多にいなかった。
僕は耐久レースに出てもじゃんけん大会でしか勝てないし、モトクロスコースでは小学生にぶち抜かれるようなサイテーレベルの腕前だったが、道なき道を進む山の中ではちょっと自信があったのだ。
「今夜はここで泊まるかねえ」「腹減ったねえ」なんて話をしつつけっこう寒い我々だが、しかしまだ決定的なピンチでもないのに男どうしで暖をとるために抱き合うのはちょっと遠慮したい気分だ。
かと言って決定的に寒くなってから抱き合うのもイヤだケド。
そもそもそんなに寒くなるのもゴメンだ。
その時、バイクの横で寝そべってクマザサの根元を触るでもなく触っていたいた僕は一カ所だけタイヤが通った跡のように地面が柔らかくなっているのに気がついた。

つづく


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